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メアリー・カサット展
京都国立美術館
会期:2016年9月27日(火)~12月4日(日)
愛のあふれる母子像で有名なメアリー・カサット。
私は「桟敷席にて」という絵は知っていました。
黒いドレスでオペラを見ているのでしょうか?
19世紀後半のパリ、オペラや演劇の鑑賞はブルジョワの娯楽でした。華やかな劇場は彼らの社交場で、紳士たちにとっては桟敷席にお目当ての女性を見つけることも楽しみのひとつでした。
この絵にも、桟敷向こうから黒いドレスを着た女性を見ている男性が描かれています。でもこの女性は男性を意識せず観劇に集中しているように見えます。
男性に媚を売らず自立した女性を描きたかったのでしょうか?!
良い絵ですね。この絵も展覧会に展示されています。一見の価値ありですよ。
この展覧会は日本では35年ぶりのメアリー・カサットの回顧展です。
初期の作品から、メアリー・カサットが影響を受けた印象派の人の作品、浮世絵の作品もその影響を受けた時代ごとに展示されています。
影響を受けた他の人の作品を並べることで、あ~こういうふうに影響されたんだ!とか見る事ができて新鮮でした。
それに音声ガイドを借りると、その時々に残したメアリー・カサットの言葉を女優の「小雪さん」が作品の前でつぶやいてくれます。心にしみること間違いなしです!
メアリー・カサットの一生を振り返る。
(自分なりの解釈で一生を振り返りました。楽しく読んでいただければ嬉しいです。そして親愛の気持ちをこめてメアリーと呼ばせていただきます。)
1844年5月22日にアメリカのペンシルヴェニア州ピッツバーグで裕福な家庭に生まれ、5人兄弟姉妹の4番目として育ちます。
メアリーが7歳の時に兄の病気治療のためにヨーロッパ(フランスとドイツ)で4年間過ごしています。その時にメアリーはフランス語とドイツ語をマスターします。子どもの吸収力はスゴイですね。私も子どもの時に海外で過ごしたかったな~(笑)
アメリカに戻った時、メアリーは外交的な性格で芸術を愛する16歳の少女に育っていました。メアリーは画家を志してペンシルヴェニア美術アカデミーに入学します。
美術アカデミーを目指すということは、その頃から才能があり、親も応援していたのでしょう。それで自立するかしないかは別として。
その頃、女性軽視の風潮がまだ濃くあり、美術アカデミーに入学を許されても、裸体モデルを使った授業には女子は許されず、石膏デッサンと模写を学びます。
今では信じられないようなことですが昔はそうだったんですね。私が美大に行っていたころ(数十年前)は、男女同じ教室で裸体デッサンの授業を受けました。最初は恥ずかしと思いましたが、すぐデッサンに夢中になり恥ずかしさはなくなりました。いい思い出です(笑)
メアリー21歳の頃、本格的にヨーロッパで腕を磨きたいと思うようになり父親に許しを願いますが「娘が画家になるくらいだったら死んだ姿をみるほうがましだ!」と言われたらしいです。
時代背景があったかも知れませんが、娘には結婚をさせて平穏な生活をさせたいという親心だったのでしょうか?
ですがメアリーは親の反対を押し切って1865年末にパリに行きます。
その頃のパリもアメリカ同様、女性軽視でパリの国立美術学校は女性の入学を拒否していました。
そこでメアリーは画家にジャン=レオン・ジェロームに師事しながらルーヴル美術館に通い名画の模写に励みます。そして街にでて、その人々の姿を描き腕を磨いていきました。
必死で絵を描き勉強し、サロン(官展)で入賞、落選をくり返している時に戦争が起こります。やむなく1870年に一時アメリカに帰りますが1871年にまた再渡欧しています。
そしてその頃のパリでは日本の美術(浮世絵など)がもてはやされていました。印象派のマネやモネがその影響を受け描いています。メアリーも影響を受けました。
その頃同じくして「ドガ」と出会います。
ドガはメアリーの生涯において、尊敬する画家であり、批評家であり、助言者であり、同志だったようです。そしてメアリーの絵にもドガの影響を色濃く残しています。
ドガとの出会いは印象派としてのメアリーの誕生でもありました。
ドガはメアリーの恋人だったのではないかと囁かれていますが、メアリーはドガが亡くなった時に、その思い出を全て焼いてしまったそうです。
愛の手紙などがあったかもしれませんね。いや絶対合ったでしょう(笑)でもお互いの激しい性格を考えて一生結婚をせず自分の志のために自由に動いています。もし結婚していたら生涯、同志で終わることはできなかったかもしれませんね。ひとつの愛のカタチですね。
印象派や浮世絵の影響を受けたメアリーは、軽やかな筆使いと明るい色彩で身近な女性や母子像を描き、独自の世界を作り上げていきました。そして徐々に名声を得てパリで初めて個展を開催し、アメリカへ戻ってからは、富豪たちの絵を収集する手助けをする仕事をしつつ、銅版画の連作を製作、シカゴ万博博覧会での女性館の壁画を製作したり活躍します。
1893年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章しました。
晩年は視力を失い(白内障と言われています。現在なら手術で簡単に治る病気ですが、そのころは怖い病気だったのですね)つつあったメアリーは筆をとるのをあきらめ、女性参政権のための運動を支援しています。(自分自身が女性であることで、しないでもよい苦労をたくさん味わったための運動だったんでしょうね)
1917年、ドカが亡くなります。
1926年、メアリー82歳 永眠。
メアリーは、自らの芸術を通して人々が「愛と人生」を感じるという信念に突き動かされ、絵を描き続けた。
そして「アーティストである喜びは他のものと比べられるものがない」と言っています。
アーティストとして頑張り続けた82年の人生でした。
※メアリー・カサット展 図録より参照
by:marumama