兵庫県立美術館 藤田嗣治展

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藤田嗣治 展覧会

「 兵庫県立美術館 藤田嗣治展 」 7月16日~9月22日
良かったです。
ってどうよかったのか言ってもらわないとわからないじゃない!?って声が聞こえてきそうです…(^^)

藤田嗣治 展覧会

ちょっと変わった風貌の藤田嗣治さんの絵は乳白色に細い線で透明感のある絵が特徴的だと思っていました。
でも今回、いろいろな絵を見ることができました。初めて見る絵もたくさんありました。

82年間の人生、それはそれは色々なことがあったと思います。
その時期、時期で画風も変わり、いろいろな絵を見ることができました。ほんとに同じ人が描いたの?と思うくらいの絵がありました。
絵を見ながら、その画家さんの人生を感じられるというのは1本の長い映画を見終わった時のような心地よい疲れがあります。
以前に「小栗康平」監督で「オダギリジョー」が主演の「FOUJITA」という映画が作られました。
私はその映画は見ていないのですが(友人にオススメしないと言われ、まだ見てないです。)…今回の展覧会の音声ガイドの声は「オダギリジョーさん」です。良い声で説明してもらえると心にしみていきますね。

長くて短い人生。みんな日々いろいろな影響を受けつつ生きています。
私はなにも残せないかもしれないですが、自分で最後は楽しかったなぁ~と言えるように…できるだけ豊かな人生をおくれるように頑張ろうと思いました。
展覧会、敷居が高いとよく聞きますが、けっしてそんなことはないですよ。
あ~こんなところに猫がいる~なんて見つけていくのも楽しいですよ。藤田嗣治の絵には猫がよく出てきますよ!
チェックしてみてください。

藤田嗣治さんのあの当時としては、ちょっと変わった髪型ですよね!でもあの髪型も異国のフランスで活躍するために自分をプロジュースしていたのかもしれませんね。

藤田嗣治

img11 今回の展覧会の図録

藤田嗣治さんの人生を私なりに短く書いてみました。(Wikipediaや図録を参考にしました)文章の中で藤田嗣治さんを親しみを込めて藤田君と書いています。笑って許してください。では少々長いですが、興味のある方は読んでみてください。
それと、兵庫県立美術館自体も素敵ですので必見じゃなくて一見の価値ありですよ!
コンクリート打ちっぱなしの「安藤忠雄」さんの設計です。
私は好きなんです。直線と曲線の建物。この建物についても書き出すと長くなりそうなので、それはまた今度。

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「藤田嗣治さん」とはどんな人?

1886年に東京の陸軍軍医の家に生まれます。
その陸軍軍医のお父さんは森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医にまで昇進した人物。
森鴎外と言えば、小説家のイメージが強かったのですが、えらい軍医さんだったんですね。(私が知らなさ過ぎ?!)話もどして、藤田嗣治さんのお家は裕福な家だったようです。

子どもの頃から絵を描き始め、現在の東京芸術大学美術学部に入学。そのころフランス帰りの黒田清輝が、いわゆる印象派(現実の生活や自然の情景を感じたままに描く絵。現在でも日本では人気があるようです。ルノアールやモネが有名)や光あふれた写実主義(見たままを写し取るような絵)が主流で授業ではその技法ばかりを教えられて、若い藤田君は失望して授業に出ず遊びにいっていました。でも個人では絵を描いては展覧会などに出品していましたがそれも落選しています。

そのころ1912年に美術教師であった女性と結婚をしました。がフランスへ行く決意をした藤田君は奥さんを日本に残したままフランスへ行ってしまいます。この結婚は1年ほどで終りました。(これは勝手すぎる!現代なら許せないですね^^;)

藤田君のフランス留学

1913年(大正2年)パリのモンパルナスに下宿をします。
そのころのモンパルナスは町外れのちょっと寂れた感じだったようで、家賃が安いのが人気で若い画家の人たちが多く住んでいたようです。
その藤田君が借りた下宿の隣の部屋にはモディリアニが住んでいて、親友になります。(私の好きな「モディリアニ」…隣に住んでいるなんてすご過ぎ!!)
その親友を通じて、ピカソやアンリルソーなどとも友達になっていきます。(うらやましい~そのころにタイムスリップしてみたいですね。どんな話で盛り上がっていたんでしょうね?もちろん芸術の話が多いんでしょうが恋花もあったんでしょうね~)

その頃フランスでは、キュビズムやシュールレアリズム、素朴派など新しい絵画の流れが登場してきていて、藤田君は衝撃を受けます。今まで日本で教わって来たものが崩れていきました。
そんな藤田君は1年後、第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が来なくなり…(というか帰らなかったんですね?!私ならすぐ帰りそう~)その戦時中、貧窮した暮らしを続け終戦を迎える。
その終戦になるかならないかと時期にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンドさんと結婚。(簡単に結婚するかんじですね!)

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その頃から絵が少しづつ売れ始めます。そのお金で初めての個展を開いています。
時期も良かったのでしょう。戦後の好景気でパトロンがフランスに集まってきており、藤田君の絵は高評価を受けて高値で売れるようになりました。(やっと生活が楽になりましたね!)
藤田君の絵は面相筆という先の細い筆で描かれた線を活かした独特の透き通るような乳白色の絵はサロンに出品するとすぐ売れていき、名前がどんどん有名になっていきました。有名になってくるとお金持ちの肖像画を頼まれることが多くなるようで、絵も肖像画がたくさん残っています。住んでいたモンパルナスでも経済的にも成功した数少ない人になりました。

藤田嗣治

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そして2人めの奥さんとも不倫関係の末に離婚。3人目の奥さんも美しい人でしたが酒癖がわるく愛人をつくり、複雑な関係を続けながら後に離婚。4人目の奥さんを連れて1933年に日本に帰国。(女性運なし?!)
その帰国した日本で25才年下の君代さんと5度目の最後の結婚。(4人目の奥さんはどうなったんでしょうね?でも君代さんで、やっと落ち着きましたね^^)

日本に帰国して

その日本で、1938年から1年間小磯良平さんたちと一緒に従軍画家をしています。その後パリに戻りましたが第二次世界大戦が始まり日本へ帰国。
戦争中、戦争画を描きました。そして終戦後、戦争協力に対する批判を受け、そんな日本に嫌気がさしフランスに戻ります。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」
「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」など言っていたそうです。
(想像を超えるいろいろな出来事があったんでしょうねーー;戦争は嫌です)

再びフランスへ

藤田君はフランスへ戻りました。でも友人達はいなくなっていました。
戦争で亡くなったり、亡命した人など(寂しかったでしょうね::)
でもそんな中、ピカソと再会し交友は晩年まで続きました。(ピカソも長生きでしたね!)

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日本で傷ついた藤田君は1955年にフランス国籍を取得します。
そして1959年にカトリックの洗礼を奥様と一緒に受け、「レオナール・フジタ」となります。
藤田君73才の時でした。(「レオナール」は敬愛するレオナルドダビンチから取ったそうです^^)

その後、「ノートル.ダム.ラ.ペ礼拝堂」の建設に携わります。
1966年礼拝堂は完成しました。
そのとき藤田君は「私はこの礼拝堂の建設によって80年間の罪を償いたいと思いました」と言っています。
そして1968年に亡くなります。
今は、その礼拝堂で眠られています

「 兵庫県立美術館 藤田嗣治展 」 7月16日~9月22日


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